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「飢餓海峡」(1965年作品)感想 [映画]

原作:水上勉、監督:内田吐夢による1965年の超大作映画。白黒作品。

題名は映画好きから何度か聞いたことがあり、気にはなっていた作品だが、内田吐夢まで揃えているレンタル屋が近所になく、WOWOWでも見かけなかったせいか、この齢になってようやく巡り合った。アマゾンビデオが有能すぎてグウの音も出ない。

昭和20年前後、日本がまだ貧しかったころの時代を背景に、複雑な人間心理を描いた作品で傑作といってもいいと思う。3時間を超える作品で、文芸作品でありながら全然退屈しない。内田吐夢、やはりすごい。

物語は網走刑務所を出所した3人の男たちが強盗放火殺人事件を起こして金を奪って逃走。列車に乗って函館へ逃げようとするが折からの台風で列車が止まってしまう。彼らは線路を歩いて函館までやってきて、内地へ渡るための船を探していたところ函館連絡船の転覆事故が起こって浜は大騒動になっていた。これに乗じて逃げようと海へ漕ぎ出すものの3人のうち強盗の実行犯ふたりが仲間割れを起こして殺し合い、主人公の犬飼多吉(三國連太郎)にも襲い掛かってくる。犬飼は彼を海に叩き落して自分だけ小舟で内地へ渡り切った。

金を独り占めした彼はなんとか逃げようとするが地理不案内で道に迷っていたところ、そこにトロッコ列車がやってきてこれに便乗させてもらう。トロッコに乗っていた杉戸八重(左幸子)と偶然知り合い、女郎をしていた彼女の部屋に上がって風呂を浴びる。

八重の貧しい境遇を聞いた多吉は、彼女に奪った金の一部を与えてその場を立ち去った。

借金があって娼婦を辞められずにいた八重は、この金で借金をすべて返済して東京に出る。東京では何とか真面目な職業に就いてやっていこうと心に決めていたところ、勤めた飲み屋はヤクザの問題に巻き込まれ面倒なことになってしまう。他に仕事もないので仕方なく娼婦に戻ってしまうが、彼女は根が真面目で多吉に貰った金は借金の返済と兄弟への出資以外まったく手を付けない。

ところがまた不幸なことに赤線が廃止されることになって娼婦を続けることが出来なくなってしまった。そんなとき、樽見京一郎という人物が多額の寄付をしたという新聞記事が目に留まり、心の底で多吉を忘れられなかった彼女は淡い期待を込めて彼に会いに行った。

樽見京一郎と面会して彼が犬飼多吉であることを確信した八重は、名前を変え過去を捨ててやり直している彼に消し去った過去を突き付けてしまう。善意に対する感謝の言葉が犬飼多吉を追い詰め、とうとう彼は八重を殺して書生を犯人に仕立て上げて心中と見せかける工作をした上で死体を捨ててしまった。

そのあとは警察が彼を追い詰めていき、彼は捕まり岩幌町での強盗放火事件、函館での強盗犯殺害事件、八重と書生の殺害事件の犯人として裁きを待つ身になってしまった。彼はなかなか肝心なところで口を割らず起訴に持ち込めないでいたところ、北海道に行きたいと唐突に喚き出し、これが供述する前の犯人らしかったので警察もこれを認め函館連絡船で北海道へ渡ろうとしたところ船の上から海に身を投じて自殺してしまう。

話はこれだけだ。

犬飼多吉という人物は貧しい家の生まれで、心優しく家族思いで小学校を出てすぐに丁稚奉公に出る。その後職業を転々とし、北海道に渡って小さな牧場で働いたり、出征したりしながらいつしか犯罪を犯し網走刑務所に世話になる。出所後に大事件に巻き込まれて何とか生き延び、手元には大金だけが残った。

この大金を彼は八重という貧しい女に分け与え、名前を変えた上で残りを食品加工業によって増やして財を成していく。彼は金を増やす傍らで慈善事業に取り組み、貧しい者に自分と同じチャンスが与えられるよう心を砕いて生きていた。

八重もまたその金で自分を娼婦に縛り付けていた借金を返済して自由になる。ところが彼女はどんなに心が綺麗でもまるでチャンスに恵まれず、どうしても娼婦の身分から逃げることが出来ない。しまいにはその娼婦という身分すら政策によって取り上げられようとしたとき、彼女はかつて自分を窮地から救ってくれた慈善事業をするような優しい男と会えば何かが変わるかもしれないと淡い期待を込めて再会する。

これが不幸となって、樽見京一郎は忘れかけていた犬飼多吉に引き戻され、立身出世する前の貧しい犯罪者として死んでいくことになる。

犯罪で得た金はふたりの男女に淡い夢だけ見せて、最後は男も女も貧しかったころに戻って死んでしまうのである。

犯罪者と娼婦はいずれも悪人ではなく、ただ貧しかっただけなのだ。大金はふたりにまっとうな人生という夢を与え、最後は奪ってしまった。ここが悲しい。どんな善良でも貧しければ人間は最底辺まで堕ちていく。しかし堕ちたからといって彼らは善良さまでも失ったわけではない。

「飢餓海峡」は内田吐夢にはピッタリの題材だったと思う。三國連太郎と左幸子の演技も素晴らしい。

3時間以上ある長い映画だが、貧しさからくる堕落は救済できる堕落であることを教えてくれる。むしろ、平等社会での堕落こそがどうにも救いようがないとも思えてしまう映画でもある。

これは大変な傑作だ。



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タケノコ、うまし [日記]

昨日米糠でアク抜きしたタケノコを醤油と鰹節で絡めて味わってみた。

ようやくお店で食べるタケノコの味になる。採れたてのせいか風味が豊かで市販の水煮のものとは全然違う。アクを抜いただけで随分と違うものだ。ホクホクのシャリシャリである。

一昨日アク抜きに失敗したものも、もう一度糠でアク抜きしてこちらは混ぜご飯にした。うまし。うまいのぉ。シャクシャクいくらでも食べられる。

本日は雨天のためかタケノコは見当たらず。晴れたらまた出てくるだろう。

それより我が家の裏山でタケノコを採るのはまだいいにしても、我が家の家の周辺まで上がってきて家の周りをウロウロするのはやめてもらいたいものだ。もう空家じゃないのだよ。

タケノコの時期が終わって糠が余っていたら、糠床に挑戦するつもり。

香の物を自作する日が来るとはなぁ。まだできてないけどさ。



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「STEINS;GATE ZERO(シュタインズ・ゲート ゼロ)」第4話 感想 [アニメ/特撮]

空々しい。寒々しい。痛々しい。軽々しい。

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このムリヤリ悲劇を作ろうとする感覚。こねくりすぎ。



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「銀河英雄伝説(旧作)」第86話 感想(八月の新政府) [アニメ/特撮]

ヤンが死んだことでイゼルローン要塞からの離脱者は増え続け、残った人員は男性とその家族だけとなって男女比が著しく歪な状態になった。

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ユリアンはヤンの戦略を受け継ぎ、イゼルローン要塞の戦略的価値を高めるために回廊の入り口と出口の政治体制を違うものにしなければならないと考えていた。つまり、オーディンかハイネセンのどちらかを帝国から切り離さなければならず、ラインハルトの構想通り首都フェザーンを中心に惑星開拓が進んでしまうとイゼルローン要塞は何の意味も持たず故に安全ではあるがただの孤立した人口惑星になって見向きもされない。イゼルローン要塞が見向き去れないということは民主共和制に誰も見向きしないということであった。

一方でイゼルローン要塞の戦略的価値が高まるときというのは再び帝国の攻撃にさらされるということであった。ヤンの脂肪によってただでさえ少ない人員が減ってしまったイゼルローン要塞で帝国艦隊と雌雄を決するのは無謀なことであった。

要塞を脱出した兵士たちはハイネセンへと舞い戻り、総督となったロイエンタールに帰着を求めて請願してきた。ロイエンタールは民間人には完全な自由を与え、兵士は登録制を要求した。ヤンの配下で上級士官であったムライに関しては監視対象としておいた。

旧フェザーンの自由商人だったボリス・コーネフは、ハイネセンで地球教徒のド・ヴィリエを目撃した。ド・ヴィリエはヨブ・トリューニヒトの邸宅の中に入っていった。

フレデリカは新しい政府の名称を何にするか意見を募った。国家では帝国との関係が難しくなるとの判断からイゼルローン共和政府という名称に落ち着いたが、後の歴史家には八月の新政府と呼ばれることが多かった。


という話。

フレデリカはイゼルローン共和政府の樹立をささやかに宣言し、帝国主義と対峙する小さな政府の長となる。

イゼルローン共和政府の面白いところは、すべての市民が戦闘員とその家族である点だ。これは83話くらいの感想でも書いことだが、民主共和制というのは誰が守るものなのかということを踏まえないとこの政府の重要性が理解できないのではないか。

帝国主義というのは、貴族もしくはそれに類するものが政体維持の義務を負い、その見返りとして身分の保証という権利を得る。それに対して共和政治というのは政体維持の義務は志願兵に頼っている。彼らは義務を代行するが、特別な権利は与えられない。

これは本当はおかしいのだ。民主共和制という「自分のことは自分で決める」という政体は、本来は徴兵の義務を負った者だけが参政権を得るという形で権利を得るのが正しい。

貴族がその身分の保全のために王や皇帝に仕え、政体維持の義務を負うことにより貴族階級と参政権を与えられるように、民主共和制の市民は徴兵義務を負って参政権という権利を政体から賦与されるのが当然であるのだ。

「自分のことは自分で決める」とはとりもなおさず「自分のことは自分で決める政治体制は、自分たちで守る」ということであるからだ。この場合の「自分たち」とは誰のことか。無論参政権を有している人間のことなのだ。参政権を得たならそれを守って戦わねばならない。民主共和制の防衛義務は市民にあるのだ。

この前提が崩れたのは、婦人参政権問題が発端である。婦人参政権とは、本来は徴兵義務を負った者(主に壮健な男子)からの権利付与(男子を生むのは女子であるという理屈)によって拡大されたが、義務を果たさずに権利を得る人間(女性)が義務を果たして権利を得た人間(男性)と同数になったことで義務の意識が曖昧になった。

さらに民主共和制が徴兵を前提とした場合、いざ戦争になると国家を挙げた総力戦となってしまい戦争が激烈を極めるようになったことで、防衛義務は権利と分けて考えなければならなくなった。このことによってさらに曖昧となった共和政体の防衛義務意識は、そのうち参政権の付与を自然権であるかのように錯覚するに至り、義務なき権利と化した。

では義務(兵役)なき権利(参政)によって選ばれた政体は、一体誰が死を賭して守るのだろうか? 自分のことは自分で決めると口にするのはたやすいが、では自分のことは本当に自分で守れるのか。

自分とは個人のことである。それに対して戦争相手は国家だ。民主共和制を否定する政体が侵略してきたとき、義務(兵役)なき権利(参政)によって選ばれた政体は誰を戦場に送り込んだらいいのだろうか? 傭兵だろうか? 志願兵であろうか? そして守ってもらった相手にどんな恩賞を与えられるというのか? 裏切りの心配はないのだろうか?

こうした参政権にまつわる根本的事実に対して問題意識を持っていないと、イゼルローン共和政府というすべてが軍人とその家族である小さな組織が帝国と対峙することの意味を理解できない。

帝国主義は権利と引き換えに義務を果たしてくれる貴族とその使用人たちで政体を守ることが出来る。商人たちは政体維持の義務を負わない代わりに参政権はない。徴税されるだけだ。納税の義務は参政権とは何の関係もない。納税したからといって政体が守られるわけではないからだ。政体を守る義務を負ったものだけが参政の権利を与えられるのが、どんな政体であっても原則である。

それに対して民主共和制は権利ばかり撒き散らして、誰も義務を負っていないのが現状なのだ。特に民主共和制に独自に進んでいった国家ではないところはこんな簡単な原則すらまるで知らず、そこに住んでいるから参政権をよこせと言い出している。民主共和制は義務意識の欠如によって政体として大きな欠陥を有しており、欠陥なき民主共和制をもし仮定するなら、「銀河英雄伝説」に出てくるイゼルローン共和政府ほどの取るに足らない小さな組織しか仮定し得ないのである。現状の政治体制はそういうものであるとこの物語は示している。

新作アニメが放送配信中で、新規にこの物語に触れる人も多いだろうが、せっかくの機会なのでしっかり勉強してもらいたいものだ。


86話をもって第3部は終了。







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