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「ガンダム Gのレコンギスタ」(2014年作品)第16話~18話 感想 [アニメ/特撮]

第16話~18話はベルリとアイーダがレイハントン家の生き残りだとわかる場面から、カシーバ・ミコシとの遭遇、メガファウナが戦闘のどさくさに紛れてクレッセント・シップの内に入ってしまうところまで。

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カシーバ・ミコシやクレッセント・シップはビーナス・グロゥブからエネルギー供給を受けるための重要な使者であるからして石ころひとつぶつけてはいけないといいながら戦艦ごと突っ込んでいくところはアイデアが秀逸すぎて何度観ても笑う。

だが今回の感想はクンタラ中心に書くので内容には踏み込まない。

今回はマスクとマニィについては大きな進展はなく、マスクがクンパ大佐に煽られて自分が指揮する軍団を軍隊レベルまで押し上げて見せようかとあがき、空回りすることくらい。

一番変化があったのはノレド・ナグで、ラライヤが正常になってしまって自分の役割を見失い、また彼女が精神的な柱としているスコード教の教えも現実の政治の前で霞んでしまい、体調を崩してしまう。

ノレド・ナグが自分もクンタラでありながら他の人たちのように鬱屈した性格になっていないのは、彼女が宗教的保守性の中でキャピタル・テリトリィの地域的保守性に馴染んでしまっているからであり、宗教という超越の気分の中で土着的差別が霞んでしまっているからに他ならない。

人間の中の保守性とは、変化に対する恐怖がその中心にあるが、彼女が初めて目の当たりにする現実の政治やアメリアの革新的人々との交流は、確実に彼女に大きなストレスを与えていた。そのためにノレドははじめのうちはとにかくキャピタル・テリトリィに帰りたがったものだが、ベルリがいっこうにその気になってくれないために仕方なくメガファウナに留まっていた。

彼女を支えていたのは、いったんキャピタル・テリトリィの一員として受け入れたラライヤの世話があったからだ。彼女が正気に返り、タブー破りのモビルスーツのパイロットになったのは、大きな衝撃があったはずだ。そんな彼女の心の変化を、体調不良という形で描き、間髪入れず彼女の進路の話に繋げているところがいつ見ても上手い。

これで軍という組織の中で出世する道を選んだルイン(マスク)、ルインについていくことを選んだマニィと並んでノレドも自分の未来に向き合う形になった。ノレドが憧れるベルリは宗教に関係がある人物像で、ノレドもまた宗教と深く関わるキャラクターであるところが面白い。

Gレコはアイーダが政治を引き受け、ベルリが宗教を引き受ける立場にある。アイーダが引き受ける政治とは、革新をどう考えどのように現実を変化させるかということであり、アメリア育ちで革新的思想を持っていた彼女が保守性という変化のためのブレーキを手にする話であった。

一方でベルリが引き受ける宗教とは、保守をどう考えどのように現実の変化を受け入れるかということであり、キャピタル・テリトリィ育ちで保守的思想を持っていた彼が革新性という変化のためのエンジンを手にする話であった。

革新的思想を持つ若者が保守性を認識し、保守的思想を持つ若者が革新性を認識したわけだ。保守と革新を対立する者としてではなく、姉と弟にしてあるところ、また両者とも若者であるところが本当に面白くてワクワクする部分だ。

かつてファーストガンダムが放送されたとき、友人とふたりで小学校から必死で走って帰り、夢中でテレビに噛り付いて観ていた。オレの中では「SFマガジン」「機動戦士ガンダム」「グイン・サーガ」は子供だった頃の自分を脱ぎ捨て新しくまとう衣装のようなものだった。子供のころに着ていた服や持ち物が急に幼稚臭くなり、中学生の学生服こそ自分の新しい衣装だと信じて早く進級したくてたまらなかった。

Gレコはあの頃の感覚を思い出す、オレにとってはかけがえのない作品である。富野作品はどれも大好きだが、ファーストガンダムのころの感覚を思い出すのはこの作品だけだ。

オレにとってのガンダムは、子供向けアニメを卒業するきっかけになる作品のことで、宇宙世紀の歴史とか、モビルスーツの姿かたちなどはどうでもいいことなのだ。

まさに、Gレコこそがオレにとってのガンダムなのだ。




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「レスラー」(2008年作品)感想 [映画]

ダーレン・アロノフスキー監督によるプロレスを題材にした映画。主演はミッキー・ローク。世界的に高評価だった映画だ。

オレは劇場で観たことがあり、嫁は初めて。というより、世代的にミッキー・ロークを知らないというので驚く。たしかに彼が売れていたのは80年代で、90年代にボクシングの試合で猫パンチKO事件を起こして以来それまでの評価が覆ってしまった俳優ではある。

この映画は、ミッキー・ローク起死回生のヒット作であった。

物語はかつて80年代のアメリカで一世を風靡した伝説のプロレスラーが落ちぶれ、地方巡業の日々を送っているところから始まる。もうかつてのようなビッグファイトをやらせてもらえる選手ではなくなり、わずかなファイトマネーでその日暮らしを送っている。持ち家はなく、小さなトレーラーハウスの家賃さえ滞る有様。足りない分はスーパーマーケットのバイトで補っていた。

レスラーの大きな身体を維持するために薬漬けになっていて、選手からは尊敬されていたがかつての栄光とはほぼ遠い。そんなとき、とどめを刺すように心臓発作が彼を襲ってバイパス手術を受けることになってしまった。

医者からは引退を勧告され、彼は途方に暮れる。彼が愛して貢いできたストリッパーはチップをくれるあてのなくなった彼に冷たく、音信不通の娘には嫌われ、スーパーマーケットではロクな仕事を回してもらえない。生きていくことがやっとで、面白くもおかしくもない日々が続いた。

娘のご機嫌を何とか取った彼は仲直りのチャンスを掴んだものの、約束の時間に酒が原因で遅刻して本当に愛想を尽かされてしまう。スーパーマーケットでは口うるさい客に気を取られ大きな怪我を負ってしまう。ほとほと自分が嫌になった彼は、かつて80年代に自分が行った最高の興行であった試合の再戦を受けてしまう。

プロレス好きの息子を見て考え直したストリッパーが彼に謝罪を入れたときには気持ちは固まっており、彼は迷うことなくリングへと上がっていく。そこは何をやっても上手くいかない彼が世紀のスーパースターに戻れる唯一の場所であったのだ。

リングに上がった彼は心臓手術のことなど思いもよらない動きを見せた。だがそれは長くは続かず、心臓はいまにも止まりそうであった。相手レスラーやレフェリーからも心配されながら、彼は20年前と同じフィニッシュホールドであるフライングボディープレスを仕掛けるためにコーナーポストから飛び上がった。

というところで終わる。

この映画のミッキー・ロークは、80年代の彼とは顔が変わってしまっている。ハリウッドにありがちの整形手術によるものだ。例の猫パンチ事件のとき、彼はタフな本物の男をアピールするためにボクサーに転向していた。その際のダメージを修正するための整形が失敗して顔が変わったのだ。

彼のボクシングの試合のすべては八百長で、戦績は金で勝ったものだ。そしてテレビ中継の入った世紀の大一番で彼は腰の引けた猫パンチで相手をKOしてしまい、あからさまな八百長にマスコミは大バッシングを繰り広げた。そこで彼の俳優としてのキャリアは地に落ちた。彼がやるはずだった映画の多くは「ダイ・ハード」が当たったブルース・ウィリスに奪われてしまった。

そんな彼が、まるで自分の自伝のような「レスラー」で復活したのは奇遇である。劇中のかつての栄光にすがるだけのダメ男はそのままミッキー・猫パンチ・ロークのまんまだ。そんな男が、もう一度輝きたい、自分の居場所はリングであり、自分の家族はファンだと訴える場面は泣ける。

80年代はプロレスにおいても黄金期であった。輝きすぎてる80年代。




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「プレシャス」(2009年作品)感想 [映画]

リー・ダニエルズ監督による社会派映画。貧困状態にある黒人の少女が主人公だ。

16歳の中学生のクレアリース・プレシャス・ジョーンズは、文字も読めないのに2人目の子供を妊娠してしまい、学校を退学になる。彼女を妊娠させたのは父親。一緒には暮らしていない。

彼女の生活は生活保護を受けながらテレビを観て、食べて、テレビを観て、食べるだけ。希望も何もなく、最初の子供はダウン症。学校を放り出されてさらに夢がなくなったところに中間施設へ転校することになって、そこで出会った教師たちの導きによって微かな希望を見つける話である。

社会派映画なので非常に暗く惨めである。プレシャスに優しくする学校の先生は子供を産んだことで家を追い出された彼女を自宅に宿泊させる。そこでプレシャスは尊敬する先生が同性愛者であることを知るが、ここでも彼女の考えが面白くてなるほどなと感心した。同性愛者が彼女をレイプしたわけじゃない、同性愛者がヤクを売ってるわけじゃない。同性愛者が売春しているわけじゃないみたいな話だ。たしかに別に悪いことはしてないなと。

追い打ちをかけるように彼女を妊娠させた父親がHIVで死ぬ。彼女も陽性と診断され、子育てが出来なくなる。それでもめげずに母親と決別して自分の道を選ぶところでエンドになる。母親役の女性が非常に演技が上手い。映画としては面白いが、話としてはつらいだけだ。プレシャスが希望をもって生きようとしているのは救いではあるが。

オレはこういう作品は同情しても共感しないたちなので「アメリカ終わってるだろ」くらいの感想しかないが、嫁はこんな素晴らしい映画はないと絶賛だった。たしかにどん底に落ちた人間に希望を与えて終わらせるラストは悪くない。でも共感はしないんだすまんな。

なんかこの映画邦題を「プレシャス!」にするつもりだったそうだ。日本の映画関係者は脳の病気か何かかな?

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「DEATH NOTE -デスノート-」(2006年作品)第4話 感想 [アニメ/特撮]

作品は面白いんだけど、Gyao!の更新が不規則すぎる。法則性がわからん。

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第4話は夜神月がレイ・ペンバーさんが迂闊にも名前を知らせてしまうところ。この回を境に夜神月が犯罪者以外を殺すようになる重要な逸話だ。ここから徐々にデスノートの使い方が洗練されてくる。12年前のアニメの方が面白いというね。

原作は後半グダグダで藤原竜也の映画版の方がまとまっていて面白かったのだが、アニメはどうなっているんだろ?

もうちょっと更新頻度を高めてくれないとなぁ。


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「MONSTER」(2004年作品)第16話 感想(ヴォルフの告白) [アニメ/特撮]

トルコ人街焼き討ち計画を知ったアンナはそれを打ち明けた女性を救出しようとしたところ、ゲーデリッツ教授の部下によって殺されてしまった。

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計画を一刻も早く外部に知らせる必要性を感じた彼女は屋敷からの脱出を試み、銃を構えて部屋から出ると、ゲーデリッツ教授をはじめ屋敷にいた多くの者が殺されているのを目にした。壁に残されていた文字からその実行犯がヨハンであると確信した。

Dr.テンマは「赤ん坊」に囚われていた。そこに彼を助けようとディータがやってきたが、逆に捕まってしまった。「赤ん坊」はDr.テンマとアンナをヴォルフ将軍に引き合わせる功績をもって彼に認められようとしていたが、そのやり口が嫌悪され、ヴォルフ将軍の手下に部下を殺されてしまう。テンマとディータはヴォルフ将軍の手下に救われる形で脱出し、ディータはトルコ人街へ危機を知らせに走った。

テンマが案内されたのは、アンナが囚われていた屋敷であった。だがそこにアンナはいなかった。彼女はすでにヨハンが指定した場所へと向かっていたのだ。テンマはそこでヴォルフ将軍と面会した。彼はたった10年ですっかり老け込んでいた。その理由はヨハンに対する恐怖であった。

テンマは彼を極右勢力のリーダーだと思っていた。旧東ドイツの極右はヨハンを担ぎ出して新j代のヒトラーにするつもりだと「赤ん坊」から聞かされたからだ。だがチェコスロバキアとの国境付近でヨハンとアンナを発見したヴォルフ将軍の考えは違っていた。彼は心底ヨハンを恐怖し、彼を殺してくれとテンマに依頼してきたのだった。

という話で最後にディータが捕まったところで終わった。どう転ぶのかさっぱりわからないこの緊迫感。これは原作からして素晴らしいのは間違いない。

旧東ドイツの極右ですら持て余すヨハンとかいう化け物。彼への恐怖によって物語全体を暗い灰色に染め上げ作品は成り立っているのだが、ヨハンをこれだけカリスマ性のある人間に描いて、彼自身が表立ってきたときに読者に失望を与えなかったのなら作者は本当に凄い。力量不足の漫画家だとカリスマ登場とともに失笑される危険もある危ない構成である。

作者も編集もかなり自信をもって連載していたのだろう。


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「ヤマノススメ サードシーズン」第3話 感想(飯能アルプス) [アニメ/特撮]

ここなが登場。この子が貧乏アパートの子だよね。

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彼女の両親は夫婦共働きで真面目な性格という設定だったはずだから、一生懸命お金を貯めていつか小さいなりにマイホームを買ってここなちゃんを喜ばせるって思っていたこともあったが、彼女もう中学生なんだよな。今更家を買っても遅いし、多分もうダメなんだろう。

親の因果が子に報いというやつですな。高校でグレて地元のワルにクスリ打たれてジャンキーにならなきゃいいけど。親は選べないからなー。

オレも膝が痛いから子ノ権現天龍寺にでも行くかな。でもあそこまで登れるなら元気じゃねーかって気がしないでもなかった。




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Twitterまとめ投稿 2018/07/17 [日記]


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「12モンキーズ」(1995年作品)感想 [映画]

テリー・ギリアム監督のSFサスペンス映画。彼の「バンデットQ」と「未来世紀ブラジル」は公開当時中高生だった連中を直撃した名作で、思い出深い監督のひとり。

学生時代にテリー・ギリアムを観ていた層の一部は富野由悠季ファンとも被っており、のちに富野節と呼ばれる会話が成立しているのかいないのかわからない感じはむしろお馴染みの劇作で、人を選ぶとかそんなものではなく当然誰かが取り入れなければいけない手法であった。

本作の脚本はピープルズ夫妻だが、会話劇はいつものテリー・ギリアム。自分に自信を持てない男に、自信家の女が確信めいた言葉を吐いて男を混乱させてしまうところもいつもの彼だ。

物語は殺人ウィルスによって人類が絶滅し、わずかな生き残りが地下世界で窮屈な生活をする未来社会から、人類滅亡を救う使者として過去に遣わされた男が運命に抗いながらも最後は運命に組み込まれ自滅する話である。ただし解釈は観る側に大きく依存している。

「未来世紀ブラジル」時代と違うのは、ブルース・ウィリス、ブラッド・ピットといったハリウッドの名優を使っているところ。テリー・ギリアムはいわゆるハリウッド的な映画を撮る監督とは違って非常に個性が強いので、この配役がむしろ低評価を生む原因になっているかもしれない。有名俳優が出演していると、バカにもわかるいわゆるハリウッド映画を多くの人が望んでしまうからだ。

しかし「認識の不確かさ」をテーマにするテリー・ギリアムは、そんなわかりやすい物語は作らない。この映画もブルース・ウィリスやブラッド・ピットの他の映画とはかなり違っていて、SFファンにはお馴染みの展開でもついてこれない人は数多くいたはずだ。ピープルズ夫妻の旦那は映画「ブレードランナー」の脚本家であり、まさにこの映画を作る上でうってつけであった。

むしろ80年代から90年代にテリー・ギリアムがもたらした劇作の手法が、10年代にアメリカのドラマなどで多用されているように思える。この辺りはもうちょっとアメリカのドラマ史に詳しくならないと断言はできないところではあるが、彼に限らず「認識の不確かさ」はP・K・ディックや押井守も扱ったテーマなので当時アニメやSFが好きだった人にはそれほど奇異な代物ではない。むしろ1986年に「紅い眼鏡」をたった2500万円で撮り上げた押井の方がすごいかもしれない。

テリー・ギリアムの特徴は「認識の不確かさ」が「自我の否定」と結びついているところだ。自分に自信のない男は自分のことを上手く説明できず、相手の認識との間で齟齬が起こると最初はそれに反発するが、やがて相手の望む姿を演じるようになってしまう。「12モンキーズ」でもそうで、過去に飛ばされたときに「自分はこういう目的がある」とハッキリしているのにいつしか別の役割を演じてしまっている。

この不確かさの中に感情移入できるかどうかが楽しめるかどうかの分岐点になっている。

非常に良く出来た作品であると同時にブラッド・ピットの助演が素晴らしい。

学生時代にこういう作品に触れ、また日本人で同じような指向性を持つ作家がいたこともあって、90年代から00年代はファンが望むままに面白い脚本の作品も増えたのだが、10年代になってすっかりその蓄えは吐き出してしまったようだ。

もう少し文芸をしっかり意識して作品に向き合わないと、レベルはどんどん低下していくばかりであろう。非常に残念なことだ。


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「エイリアンVSアバター」(2011年作品)感想 [映画]

ルイス・ショーンブラン監督によるやっつけ感満載の映画。サメ映画並みのクオリティーでお送りするエイリアンVSシリーズ最高駄作。

この手の映画の良いところはなにせ意識が低いので可愛い女の子が出演し、すぐに脱ぐところ。サメ映画もそうだが、普通の芸術作品に美人が出演しにくくなるなか、もはや期待は意識低くて難しいことわからん系のやつらにかかっている。

個人的にアバター役の青塗りの女がケイスケホンダに似ているのがツボだった。

こんなクソ映画が許されるなら「霊魔の街」の劇場版が観たいな。







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「ジュール・ヴェルヌの地底探検」(1976年作品)感想 [映画]

ファン・ピケール・シモン監督によるスペインの冒険SF映画。原作はジュール・ヴェルヌの「地底旅行」。冒険SFの元祖のような作品である。

ジュール・ヴェルヌの時代、「空を飛ぶ機械は重い物か、軽い物か」と同じように「地底は温かいか、冷たいか」といった議論が大真面目になされていた。前者は飛行機と飛行船のどちらが普及するかといったテーマであり、後者は地球の内部にはマグマがあるのか、それとも空洞であるかというテーマであった。この作品は「地球の内部は冷たく、空洞で、過去の時代のものが生き残っている」という前提で描かれている。

ジュール・ヴェルヌの「地底旅行」は過去にも映像化され、近年でもなされているが、この映画のようにスペイン映画に吹替えがついて放送・配信がなされるのはひとえにジュール・ヴェルヌの人気のゆえである。他の作家で1864年発表の作品が100年以上経って映像化されることなどほとんどないと言っていいし、これからもずっと映像化の試みは続くはずだ。

ジュール・ヴェルヌは未来社会を的確に予測した人物としてSFの元祖として扱われているが、この作品は地球の内部の様子を誤って認識しており、科学としては間違っている。それにも関わらず人気が保たれているのは、「地球の内部は冷たく、空洞で、過去の時代のものが生き残っている」のうちの後半の部分、過去の時代のものが生き残っているという設定が面白いからである。

空洞になった地底世界は、地球の中心部に太陽のような光源があり、重力が逆向きになっていて、地上の海と地下の巨大湖が背中合わせに張り付いている。地球の内部はそっくりそのままもうひとつの地球になっているのだ。しかも地上で絶滅した生物が多数生き残っていて、もちろん恐竜もいる。

最初に登場するのは海獣である。海のような巨大湖に生息しているので劇中では海獣と呼ばれていた。決して怪獣ではない。首長竜ではない古代生物である。

そこで特撮の出番になるわけだが、この映画では海獣の人形の中に腕を入れて操っているように見える。1976年ということは「スター・ウォーズ」以外アメリカ映画はストップモーションアニメ、日本は着ぐるみが主流であったが、そのほかの地域はこうした腕を入れて操るマペットが多用されていた。いまでもBBCなどは恐竜のちょっとしたシーンではCGではなく人形を使うことが多いので、ヨーロッパの伝統なのだろう。

巨大ゴリラは着ぐるみ、陸上恐竜はストップモーションアニメかもしれない。当時としてはかなりの大スペクタクルになっている。

筏で巨大湖を横断するのだが、その途中で火山弾に見舞われて筏が粉々に砕けるシーンがあり、当時の脚本の定石通り余計な説明がないので火山弾の意味がわからない人もいるかもしれない。教授が地上の火山の噴火が近いというのが伏線になっていて、地底世界でもそれに連動して火山の噴火が迫っているという描写なのだ。70年代くらいまではこうした伏線の説明はしないのが普通だった。80年代になってアメリカ映画で説明過多の方がより一般的だとされ、説明がなされるようになった。

噴火の圧力によって地下水が溢れるシーンなどの特撮もかなり迫力があり、これは古い特撮映画を押さえておきたい人には良い作品だと感じた。オレも観ておいてよかった。

古い作品と新しい作品を同列で論じる人には向かないので注意。


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