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吾妻ひでお「失踪日記」読了 [読書・漫画]

手塚治虫が死んだ1989年、ひとりの漫画家が連載を落として失踪した。

それが吾妻ひでおである。

この作品は、彼が失踪してホームレスに転落していた時代の、生々しくも笑ってしまう日々の記録となっている。

オレが吾妻ひでおを知ったのは小学生のころ、少年チャンピオンの連載がきっかけだったと思う。作品が「ふたりと5人」だったかどうかは記憶にない。オレの目当ては「ブラックジャック」だったからだ。「ふたりと5人」はHな漫画としてかなり有名で、チャンピオンを読んでいるとこの漫画目当てと思われ非常に迷惑した。

のちにSF好きの漫画家としてマイナーな有名人となった彼は、オレの同人参加と同時期にロリコン同人誌「シベール」を刊行してしまう。現在のコミケにおいて醜悪なほどロリコン作品が多いのは、すべて吾妻ひでおの責任(お蔭?)である。吾妻ひでおの出現によって、同人誌即売会(コミケ)はロリコン同人即売会と化した。オレがコミケから足を洗ったのはこいつの責任(お蔭?)だ。

手塚が亡くなった年、オレは弱小出版社で編集をやっていた。吾妻ひでおとは縁もゆかりもなかったが、実は彼の失踪がまわりまわってこちらに襲い掛かり、金銭的なことではないが、大変困難で厄介な事態を引き起こしている。正直言うと「吾妻の野郎、殺す」とまで思っていた。





のちに編集から足を洗ったオレは、偶然書店でこの本を見つけ、購入した。

パラパラと中身を読み、何もかも許すつもりになった。

この漫画はとても面白い。





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手塚治虫「ネオ・ファウスト」読了 [読書・漫画]

この作品は手塚治虫の絶筆である。

作品は未完のまま終わっているが、第1部は完結している。胃癌で入院中だった手塚は、死の直前まで完成にこだわっていたというのは有名な話。

「ネオ・ファウスト」は、生命の探求に生涯を捧げた学者が、悪魔と契約して若い肉体を手に入れるところから始まる。毎年ノーベル賞候補に挙がりながらも受賞は逃し、老いぼれ、学生たちからもミイラ扱いされる老学者はまるで晩年の手塚そのものだ。主人公の「まだやり残したことがある。死にたくない」という科白や、若返った彼が快楽的な人生を望むところ、また一人の美しい女性の像に魅入られていく様など、自己反映が多い。

個人的にこの作品は「火の鳥・現代編」に一番近いのではないかと考えている。未完なのではっきりとはわからないが、ガラスケースの中の美しい女性が火の鳥ではないかと思いながら読んでいた。オレがまだ東京のある出版社で編集をやっていたころの話だ。

始まりの舞台は70年安保の日本。そこですでに老学者であった男は老いぼれた自分を儚み、世を儚み、自身の研究が未完であることに絶望していた。男は若い肉体を得るためならどんなことでもすると願い、悪魔に取り入られてしまう。悪魔は、男の死後の束縛と引き換えに、老学者に若い肉体を与えると約束し、願いを果たす。

若い肉体を得た男は、記憶を失い、また時代を遡り、戦後まもなくの頃から人生をやり直すことになった。男は悪魔の導きによって建設業界の大物の部下となり、やがて側近に取り立てられ、最後は一代で築き上げた巨万の富を養子となって受け継いだ。大金持ちとなった彼は、美しい肉体で女性遍歴を重ね、やがて学生運動で殺気立つ元の時代にたどり着く。学園にはかつての自分である老学者がおり、男は老学者の研究成果を狙って学園に潜り込んだ。その男こそ、物語の冒頭で老学者に取り入ろうとしていた謎の青年であった。

老学者と同じ時代にたどり着いた青年は、老学者に取り入り、やがて彼の絶望と悲しみを知る。老学者はかつて青年がそうしたように悪魔にすがった。降霊の儀式を手伝った青年は、そこで老学者が死ぬのを見た。すでに悪魔と契約し、願いを叶えたのちは、老学者の命は失われていたのだった。

ここで第1部が終わる。

第2部は、老学者の研究成果と、建設業界の大物が残した財産を手に入れた青年の数10年後から始まる。まさに手塚が死のうとしていた時代が舞台だ。

かつての青年は壮健な成人男性となっていた。学者としての名声と有り余る富を得て、何不自由ない暮らしをしていたが、悪魔と契約した彼にはずっとメフィストがつきまとっている。彼はかつて見たガラスケースの中の少女を手に入れていたが、少女をケースの外に出す方法は見つかっていなかった。学生時代に愛し合った女性は気が狂って精神病院に入っている。

この部分で残念ながら絶筆を迎えた。

オレがこの作品を「火の鳥・現代編」と捉えているのは、ガラスケースの中の少女を火の鳥だと推理したからだ。少女は美しく、見えているのに触れられないところにあり、主人公の坂根第一の所有物になっている。

主人公はこの少女のことを解明して少女のすべてを手に入れようと生涯を捧げているが、一向に謎は明らかにならない。手の中にありながら、少女の秘密はまったく解決されない。命の謎を解明するために悪魔と契約してまで執着したのに、成果はまったく上がらないのだ。一方で、再び歳を取り、どんどん老いていき、時間だけがむなしく過ぎ去る。

この状況は、「火の鳥」をライフワークとした手塚の心境に非常に近いと思うのだ。

オレの想像では、手塚としては残された執筆時間を鑑みて第1部だけを「ネオ・ファウスト」として発表するつもりだったのだと思う。「ネオ・ファウスト」は老学者の学問への執着、仕事への執着、生きることへの執着が良く描かれており、伏線は残されているが第1部だけでも十分鑑賞に堪えうる作品としてまとまっている。「火の鳥」の中で、生命の秘密に迫れなかった手塚の無念と、できることなら悪魔と契約してでももう一度若い肉体を得て仕事を完遂したいという執念に満ちているからだ。

第2部を始めたのは、1部を描き切ってそれなりの評判も得ており、また自分が死ぬという感覚に乏しかったことが原因ではないだろうか。外から見ていた方としては手塚の肉体はすでにボロボロだったのだが、たしかにその特徴的な笑顔は変わっていなかった。また、病床でもかなり精力的に仕事をこなせていたのも大きかったと思う。死にそうなのはわかっているが、実際に死ぬ実感に乏しかったのは、仕事ができていたことが大きい。

手塚の「火の鳥」への執念が、ガラスケースの中の少女=火の鳥といま一度向き合わせたのだと思っている。




もうこういうことを書くのも嫌なのだが、晩年に「アドルフに告ぐ」や「ネオ・ファウスト」を執筆したことで、手塚は左翼お気に入りの漫画家となってボロボロの肉体でなお「平和」をテーマにした講演などに駆り出されていた。「ネオ・ファウスト」も、学生運動の時代が舞台だったために左翼の奴らはそれこそ鼻を鳴らして手塚にすり寄っていた。

だがよく読めばわかるが、手塚にとって学生運動(70年安保闘争)は、共感と非共感のどちらでもない。安保闘争時、彼は学生運動には関わっておらず、すでに自分のなすべき仕事と向き合っていた。主人公坂根第一が、学生運動の真っただ中にありながら、そんなものには目も暮れず、ひたすら命を研究するかつての自分自身と関係している部分で理解できるはずだ。

子供から子供らしさを奪う側面のあった学生運動は、手塚にあっては嫌悪の対象ともなっていた。劇中で学生運動のリーダーが、この運動は失敗して自分は警察に捕まるからぜひ自分のクローンを作ってくれと精子を持って主人公を訪ねる場面の醜悪さから目を背けてはいけないのだ。

革命運動に身を置いても、それは何をも成していない。一方で手塚はずっと職業漫画家であった。

「ネオ・ファウスト」は、第1部において病に倒れた手塚の焦りの表明であり、第2部では「火の鳥」への再チャレンジだと読み解いた方がわかりやすい。

この作品が、「火の鳥・現代編」だったのだ。メモとして残されたアイデアを、第2部の柱にしたかったんじゃないかな。






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手塚治虫「アドルフに告ぐ」読了 [読書・漫画]

裏山の下草刈ってから手塚後期の傑作「アドルフに告ぐ」を一気に読む。

この作品、週刊文春に連載されたのだが、編集者との打ち合わせで手塚が示したいくつかの案のひとつであり、作品の方向性も出版社依頼で変更されている。

こんな作品のアイデアが頭の中に眠ったままになっていて、下手すると陽の目を見なかったかもしれないとか、当初アイデアを変更した上でこんな大河を描き切ったとか、自身の病気(癌)で後半は大幅にカットされているとか、ちょっと信じられない。それくらい良い。

ヒトラー=ユダヤ人説をヒントに構想された作品で、現在では否定された学説であるものの、もちろんこの作品は史実を追求するのが目的ではないので、その部分は批判の根拠にはならないだろう。そんなことより、これほどハードな内容を構想し、構成して描き上げたのが最晩年であったことに驚く。

オレにとっての手塚は、物心ついたときにはすでに漫画の神様であった。流行の絵柄ではなかったので、二世代前の漫画家というイメージで接していた。「ブラックジャック」や「ブッダ」が連載中であったのに、それらを読んでも同時代の漫画家という感じはまったくしなかった。

当時は「絵柄が古めかしいから」同時代性を感じないのだとばかり思っていたものだが、「ブラックジャック」にしろ「ブッダ」にしろ「アドルフに告ぐ」にしろ「陽だまりの樹」にしろ、読書体験中に生じる作品評価にあってすでに「古典的傑作」という意識があったからかもしれないと思い始めている。他の若い漫画家たちと同じ土俵に立っていながら、作品レベルは他を圧倒していたのだ。

主にキャラ造形において新規性に乏しかった手塚は、漫画雑誌の読者アンケートなどにおいて苦戦することが多かったものだが、当時の作品がほぼ記憶から消え去ったいまになっても、手塚の作品だけは輝き続けている。「アドルフに告ぐ」など、手塚の最晩年であって、他にいくつもの傑作漫画を世に送り出し、アニメに進出してそれなりに足跡を残した後に描かれているのだ。奇跡的な創作者だったとわかる。

一世を風靡しただけの天才なら、死後数年で再評価の機運が出てくるものだが、手塚は最晩年に至ってなお他の漫画家が生み出せない数々の傑作を世に送り出したために、死後に手塚ブーム・再評価のようなものは起こっていないはずだ。だが、「火の鳥」「アドルフに告ぐ」と読んでみて、いずれは手塚の功績は洗いざらい再評価され、不世出の天才であることが改めて認識されるはずだ。

天才であることや神様であることが自明であったために、当たり前の評価を下すことを評論家が避けた結果として、手塚は宙ぶらりんな場所に置かれたままになっている。

映画も漫画も文学でさえそうだが、日本の評論は何かがおかしい。人物を時代性の中に落とし込むことができていない。漫画もアニメも、もっと多く語られ、時代の中に作家の確かな足跡として刻印するべきだ。

と、感動に鳥肌を立てつつ思案した次第。

続けて「陽だまりの樹」が読みたいところだが、あいにくオレも彼女さんも持っていなかったので、絶筆となった「ネオ・ファウスト」でも読んで、いったん手塚から離れよう。






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手塚治虫「火の鳥」読了 [読書・漫画]

細々した仕事の合間を縫って手塚治虫の「火の鳥」を読んだ。

今回は時系列順に読んだのだが、手塚の構成力は人間離れしている。石ノ森のようにスタッフ総出で新キャラを考え続けるのとは違い、ほぼ一人で全部構想し構成しているのだから驚きだ。

長年書き続けた作品なので絵柄などずいぶん変わってきているのだが(というより意図的に変えた)、時系列順に書かれた順番をバラバラにして読んでも一貫性があって、破綻がない。だがそんな評価が二の次になるほどどの作品もあっという間に独自の世界観に引き込まれていく。

実を言うとオレはあまり漫画を読んでこなかった人間で、活字の方が好きなのだが、「火の鳥」だけは活字では味わえない没入感を読むたびに味わって感動する。

最後に「未来編」を読んで〆たのだが、「未来編」が1967年初出、最後の作品になった「太陽編」が1986年初出。約20年の歳月が開いているのに関わらず、「太陽編」の後に「未来編」を読んでも違和感がない。どうしてこんなことができたのかまったく理解不能だ。手塚の頭の中はどうなっていたのか。なぜ20年前の作品である「未来編」が陳腐にならなかったのだろう。

「火の鳥」は、遠い過去と遠い未来を順番に描きながら最後は作者の最終到達点である現代(死ぬ間際に観た世界)を最後に終わる構想だったそうだ。結局は手塚が病に倒れてそれは叶わぬままだったが、「未来編」は「黎明編」の冒頭に繋がり、完全に循環ができている。その壮大な物語のほんのわずかな時間に生きた自分の生涯の最期を完結の舞台に選んだ手塚の天才ぶりは本当に傑出したものだ。

せめてあと10年生きていたなら、「現代編」も描かれたのであろうか。

手塚の晩年、やせ細った彼を平和主義団体が講演に引っ張り出して酷使していたのはいまでも鮮明に覚えている。「平和」という言葉に我を忘れて目の前にいる人間の体調を一切慮れない精神は、「平和」のみならずあらゆる言語を陳腐化させ、腐らせていくだろう。

言葉を輝かせた人が、言葉を腐らせる人に殺されていったのはいかにも残念だ。




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