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左=進歩主義者の好きな破壊行為 [哲学]

政府が在日へのヘイトスピーチ規制に動いているそうです。

詳細がわからない段階でいきなり反対はしないけども、自民党が左翼への配慮をやめないから「保守だけではダメだ」的な人が増えるんですよね。

政治的に自民党が強いので、自民党は左翼政党及び左翼主義者に対し最大限の配慮をしながら政治を進めなくてはならないという考え方は、政権交代が起こりにくくなった55年体制以降の、戦後レジームのひとつです。

その罠にそろそろ安倍総理も掛かりそうな気配がしてきて、支持者としては気が気じゃないですね。そんなに慌ててもおりませんが。

保守=自民(しかない)と看做し、(左翼への配慮をやめない)自民だけではいけないと考えるに至り、愛国を理想と定めてそれに合致するなら右も左も厭わないと考えるのは、大きな誤りです。

保守は何か体系だった思想なり理想があるわけではなく、「いろいろ観察したところ、進歩思想はダメっぽい」と確信し、大きく人々の生活を毀損するようなものにすがるよりは、問題はあってもすでに実績のある常識や道徳で運営していったほうがマシであろうと思い定めたのが保守です。

右とか左で理解するから、まるで物の見方の違いのように感じて、間違えることになる。

物事の見方に右と左があるのではなく、熱病のように進歩主義に浮かれる連中を観察した結果「奴らのやり方は大きな破綻を招くだろう」と警鐘を鳴らしたら、観察眼のない皮肉屋連中に右と左のレッテルを貼られ、肝心な部分の理解がなされないまま現在に至っているという話です。

物事を常識や伝統に基づき進めれば、間抜けな人間たちは小さな失敗を何度も繰り返すだけで済むけども、理想に基づき物事を進めると、間抜けな人間たちは小さな失敗を無視したり、隠蔽したりして、最後は巨大な破綻に陥って取り返しがつかなくなるから、左、つまり進歩思想は危険だと判断したのだ。

進歩主義と愛国は相容れないものです。

「右も左も関係なくこの国が好きなだけ」とおっしゃる方にいちいち逆らう気持ちはありませんが、進歩思想は個の超克、国家の超克などを経て理想に至るのが正しいとしているのに、なぜ国家の常識や道徳や価値観が進歩主義者によって保たれると思ったのでしょうか?

彼らの目的は、国家の常識や道徳や価値観を破壊し、超克することなのです。国家の常識や道徳や価値観がある限り、彼らは目標の達成ができないので、必ず国家の常識や道徳や価値観は破壊されます。

例外は国家社会主義のナチスだけです。

ナチスは自己目的として自らの国家の破壊はしなかったけども、逆に優生学を悪用し、ゲルマン民族が超克を完了した優生体であると勝手に看做した上で、優生体による侵略と統治こそが、人類が国家の超克を達成する手段になりうるとしたのです。

国家の超克を侵略主義に求めたナチスにより、民族自決の原理は著しく損なわれ、結果としてドイツは敗戦の憂き目にあい、世界大戦2連敗、ゲルマンの常識や道徳や価値観は大きく毀損されました。

進歩主義の理想実現のために自らの国家を破壊していくことと、国粋主義の理想実現のために他国の常識や道徳や価値観を破壊していくことは全く同じ行為です。国粋主義がぼんやりと一国平和主義に結びついている人がいますが、国粋主義はGDPの大幅な低下をもたらすので、自由主義より他国への依存度が強まります。

ついでに言えば、グローバリズムという単一国家主義も、すべての国家の常識や道徳や価値観を破壊して進歩を目指す左翼思想の一種です。

保守=自民(しか選択がない)という状況で、自民への失望が重なり、「右も左もなくこの国が好きなだけ」となるのはよくわかりますが、左=進歩主義者にできるのは、個の中にある道徳の破壊と、国家に宿る常識の破壊だけです。

民族自決を守り、国際主義を進めていくのは、本来インターナショナリズムが負うべき役割でした。

近年、インターナショナリズムの代わりにグローバリズムが幅を利かせていますけども、これは死にかけた左翼の改訂版進歩主義であって、その先にあるのは、巨大な瀑布にほかなりません。

滝に落ちる前に、もう一度国家の重要性を認識して、その上で国際主義の大切さを学んでいかなくてはいけませんね。

ところが、そういった学習の大きな妨げになっていることがあります。隣国である中国韓国の妨害です。

「特亜が嫌い」でも構いませんが、(落ち着いた思考の妨げになる)特亜とは距離を置くべきだと、多くの保守派は思っているでしょう。

その主張の一端が在日が取り上げる(日本人による自分たちへの)ヘイトスピーチなのですが、これは落ち着いた思考の時間を取り戻すための政治主張の一部であるので、それを規制することは、落ち着いた思考へと至る道を(一部)妨げることになります。そのことを政治家が理解して規制問題に当たらないと、政治状況は一変して不安定化するでしょう。

巧みな外交を見せる安倍総理が、外交成果を焦って支持者を失うのは、賢いやり方とは思えないですね。

しばらく様子を見て、問題を抱えた法案ができるようなら、考えものです。

行動に移すのはその先でいいと思います。



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民主主義に絶望する前に [哲学]

会社で少し話題になったので簡潔に。

とかく民主主義という政治体制自体を疑問視する人がいるようですが、こうした人は、人の世のままならぬ有様の多くは、過剰もしくは過小がもたらす結果だということを知らない場合が多い。

民主主義というこの世のままならぬ最大のものに対しても、事の整理をせぬまま批判しても仕方がない。

もともと民主主義は、兵役の義務を追う者が得た政治参加の権利であった。

かつては貴族が、そして徴兵制度確立後は兵役の義務を果たした者が。それが拡大されていって、「兵役の義務が生じる男子に限り」となり「その男子を生む女子にも」となって、現在の方向へ進んでいった。

リベラルな考えでは、より多くの者に参政権が与えられた方が進歩的とされているが、これが「民主主義の過剰」の原因となった。

民主主義は、「参政権の拡大がもたらした政治参加の過剰」が原因となって現在の有様が状常態となったのだ。

ふと考えれば誰しも思い当たるだろうが、社会の中でより賢き者の選択する道程と、愚かな者が選択する道程では、前者と後者で信頼感は全く違う。多くの者は、自らの命が関わる選択において、愚か者が示す未来を選ぶ道理はない。

賢き者が選ぶ未来を行きたがるのが通常の反応である。

だが、そうならない場合もある。賢き者は社会の少数派なので、彼らにのみ選択権があった場合、彼らは賢さをフルに発揮して自己保身を図る可能性が高い。それは賢き者による愚かな選択である。賢くもなく愚かでもない人々は、賢き者がいつも自分たちのために選択を行うとは限らないことをよく知っている。

なので、賢き者が常に自分たちを裏切る可能性を考えつつ、彼らに意思決定させたいと思っている。これが機能している限りにおいて、民主主義はさほど大きく間違うことはない。

だが、参政権が過剰となり、そもそもなぜ自分たちに政治参加の権利が与えられているのかさえはっきりしないほど政治参加が当たり前になった場合はどうだろう。

彼らは、平等なこの世の中に賢き者の賢き選択があるということさえ見失うかもしれない。多くの者は、より確かな未来への道程を示してもらうための民主主義を、損得でしか考えないかもしれない。集団の知を発揮しようとした制度が、人間を利己的な「個」に押し込め、「個」の損得なり善悪の対立が、世のすべての習い事だと思い込むかもしれない。

より多くの「個」の政治への参加は、参政した者の間から「世間知」を奪い、言葉の過剰が寡黙な反発心だけを増幅させるかもしれない。

よくマスコミに毒された者たちが、投票率は高いほどよい結果が得られると喧伝するが、それは全くの偽りである。左翼の「選挙に行こう」キャンペーンは、「バカの意思に従おうぜ、みんな」という話だ。

民主制度をほどよく機能させるためには、政治に関してよくわからない者は棄権し、判断のできない者は態度を保留し、確信を持った者だけが投票するのが望ましいのだ。

確信には正しいものも間違ったものも含まれるが、論理的帰結は結果責任に左右されず時代の限界として正しいものと仮定するしかない。時代の限界は超えられないからだ。

昨今の政治結果を見ると、投票率が高かった場合ほど政治は不安定化し、人々の生活は破綻の危機に瀕している。投票率が低ければ低いほど、不確実な時代にもった確信が政治に反映され、良い結果を得られている。

バカは政治に参加するな、は言いすぎかもしれないが、わからないなら関心を持たずにやり過ごすのが正しいあり方だ。

より多くの民意が反映されるときは、より多くの愚か者の示す未来への道程を行かねばならぬ、暗黒時代なのだと知っておくと良い。

ウチの会社の某社員のように「NYの株価が・・・」という話題に「それ、集団的自衛権が関係あるんでしょうね?」と答えるような、浅はかというより愚かそのものの反応しか示せないなら、政治に参加しない方がいいのだ。

バカが示す先へ進みたいと願うのは、バカだけで充分だからだ。



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自分の身の丈 [哲学]

高校生だった頃の思い出。

身体測定が行われる日、担任の教師が急にこんなことを言い出した。

「身長を測るときに背伸びをする奴は卑劣だ」

唐突だったので、生徒たちは皆ポカンとしていた。担任は長身の男である。180センチほどあった。教師は続けてこういった。

「身長を測るときに猫背になってうつむいている奴は卑屈だ」

何かを生徒に伝えようとしていることが分かり、我々は黙って次の言葉を待っていた。すると担任は大きく胸をそらしてこういった。

「背筋をしゃんと伸ばし、まっすぐ前を見たお前らの姿こそがお前らの本当の身の丈だ」

あれ以来、もう数十年になるが、いまだに身長を測るときは背筋を伸ばし、まっすぐに前を見る。

これがオレのいまの身の丈なんだなと思いながら。



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日本水稲農耕の起源地に関する総合的研究 [哲学]

また、まとめサイトからの拾い物です。

日本水稲農耕の起源地に関する総合的研究

http://kaken.nii.ac.jp/d/p/16251004

米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。

往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。



>水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。


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転載禁止されたまとめサイト [哲学]

2ちゃんねるからの転載禁止処置をくらったまとめサイトの皆さんが苦労されているようだ。

2ちゃんねるは読むのが面倒、探すのが手間、時間の無駄だと思って当の掲示板にはほとんど行ったことがないのだが、まとめサイトはよく利用していた。とくにツイッターで拡散できる機能がついてからはほぼ毎日利用している。

いくつかのサイトはお気に入りに登録して全ての記事に目を通していたのだが、掲示板のコメントを転載できなくなってからはたしかにおもしろさが半減してしまったようだ。

今回の処置を陰謀論的に解釈する向きもあるようだが、2ちゃんねるにどんな気の利いたコメントをしても報酬は一切なく、まとめサイトの管理人にはアフィリエイトの収入が発生するのだから、気に食わない人もいたのかもしれない。

いろいろと覗いてみたところ、転載禁止を守って工夫しているところと、まだ好き勝手に転載しているところとある。コピペはいけないが書き起せばいいとか、アフィリエイトサイトじゃなければいいとか、門外漢なので基準がさっぱりわからない。

だからといって、2ちゃんねるの現状を詳しく知ろうという気もない。まとめサイトがおもしろおかしく手短にまとめてあれば読むし、なければないで困らない。2ちゃんねるにアクセスしてあの人々の仲間になろうという気もない。

鬱陶しいだけだ。

ただ、やはり利用者が多いので、あれだけ幅広い意見や見識が読めるのはなかなかない。マスに向かって発信している情報媒体が胡散臭い連中ばかりなので、2ちゃんねるの方がまともに見えるときだってある。特に放射能に関することなどがそうだ。

放射能のことはmixiをやっていたとき、かなり日記ネタにしたものだが、mixiくらいの規模でも放射脳の暗黒妄想にすぐに偏る。偏らないためには2ちゃんねるほどの規模と自由さが必要なのだ。

規模が大きいから面白い罵り合いになる。しかし、規模が大きいから散漫になる。散漫にやり取りされている面白い部分だけピックアップするサイトが生まれる。それらのサイトは需要があるから、どうせならアフィリエイトの仕組みを使おうということになる。かなり稼げる。それが気に食わない。

という流れなのだろうか?

イギリスのとある学者が、フランスやドイツの論理的な哲学と比較して劣っているように見えるイギリスの思考状況を、散漫(散文的)であるがゆえにバランスに優れ、散漫であるがゆえに核心を突くのだと擁護したことがあったが、2ちゃんねるは規模においてイギリスの言論界など寄せ付けない雑多さを誇るのだから、自虐的に誇ることができるくらいには良いものだと思っている。

それらを垣間見るにうってつけだったまとめサイトへの転載禁止は、正直言えばちょっと残念かもしれない。

なければないで困らないものだが、あれば有意義と言えなくもない程度には価値があったのに。

ともあれ、2ちゃんねるの拡散力はこれで少しは落ちるのだろう。使えないと判断すれば別のものが代用になるのかもしれないが、大規模で自由な場所の確保というのは、なかなかできないもので、規模が落ちても自由さが失われても、書き込んでる人たちの失望につながるだろうとは思っている。

短気は損気でございますな。

スウェーデン型教育制度大失敗 [哲学]

一時期は何かというとスウェーデンスウェーデンだったからね。

左翼やフェミニストが口を揃えてとにかくスウェーデンに学べ、北欧に学べと。

スウェーデンの個性重視政策や教育の地方分権化や積極的な移民受け入れ政策がすべて失敗だったという記事です。

日本も一時はかなり毒されていたんですが、ゆとり教育に反対し、保守的な言論で頑張ってきた人が多くいたのが幸いしましたね。知らない人も多いでしょうが、形勢は圧倒的に不利で、それでも負けずにゆとり教育を批判してきた人が多かったおかげで、方向転換ができたんです。

北欧に学んだアメリカの教育制度も失敗してますし、移民を受け入れた国はどこもボロボロ。

民主党がやろうとしていた政策もこの時期の流行に則っています。東京都知事選に出るかもしれない舛添も同じです。宇都宮もそうですね。失敗した政策をまだやろうとしている。

ついでに書いておきますとね、北欧発世界的ベストセラーになった「ソフィーの世界」という本も、内容は完全に間違っています。

何度も間違いは指摘してきたんですが、また暇があったらぼちぼち書きます。

下の記事はぜひ読んでください。


保守反動 [哲学]

反動というのは抵抗する者への非難用語として使われるが、過剰な急進主義の高まりが大きいか小さいかでその反動幅は変化する。

急進主義者から見て相手勢力の反動が大きいと感じた場合、それは自らの急進姿勢が大きいなったからだと解釈すれば、急進主義は落ち着きをもって自己主張を行うことができるが、いつも彼らがいきり立って攻撃的なのは、彼らの頭の中にあるべき正しい理想というものが存在するからである。

世界のあるべき姿、世界の正しい理想に向かって人類は歩んでいるのだという進歩的な価値観が、彼らの行動姿勢を急進的で攻撃的にしている。正しい理想の世界を自分は知っているという思い込みがあれば、早くそれに近づきたいと思うだろうし、それを邪魔立てする勢力は変化に対する恐怖に怯えた臆病者に見えるのだろう。

保守と革新の関係はこういうものだが、アメリカの場合は少し事情が違うのかもしれない。

アメリカの保守というのは急進主義者への反動ばかりではなく、それ自体が教条主義という古びた進歩主義だからである。歴史と未来と真理を記したとされる聖書は、世界のあるべき姿、世界の正しい理想を示した書物である。聖書は人間が歩むべき道程とたどり着くべき未来を示しており、それは旧式の進歩主義なのだ。

新式の進歩主義者は合理を片手に歩むが、旧式の進歩主義者は聖書を片手に歩む。

新式の進歩主義者の持つ合理には、実は世界のあるべき姿も世界の正しい理想も書かれてはおらず、仮定と推論が日々書き換えられているだけで、聖書の代わりにはならないものなのに、合理を入手した人間はなぜかこれで人間はあるべき理想の世界とあるべき理想の人間像に近づけると錯覚した。

聖書(旧式)の否定が新しい聖書(合理・新式)になったということだ。

進歩主義というのは、合理主義者が非合理主義者(キリスト教徒)を見分けあぶりだすための踏み絵である。「もしお前が合理主義という新しい価値観を受け入れるならば、この新しい価値観が提唱するあらゆる新しい人間の姿すべてを受け入れられるはずだ」と、日々人種がどうの、同性愛がどうの、進化がどうのとうるさく迫ってくる。

なんとも中世的な話なのだ。

旧式の進歩主義者たちは仕方なく、合理主義が提唱してきたあらゆる価値観の否定に取り掛からなければならなくなった。本当は彼ら旧式の進歩主義者も合理主義の恩恵にあやかれるはずだったのに、中世的な行動原理を持つ急進的進歩主義者たちの踏み絵にうんざりして、合理を否定する立場に身を置かねばならなくなった。

このような認識でいるので、現在のアメリカの状況は、新大陸にやってきた中世だと思っている。中世的な行動原理に基づいて進歩主義のあらゆるものを教条化する新式の進歩主義者と、中世的な環境原理に基づいて進歩主義のあらゆるものを否定する旧式の元祖教条主義者の争いである。

合理とは否定である。

新旧どちらの教条主義も否定してみると、少しは人間も合理を扱えるようになるのかもしれない。









伊藤博文の言葉 [哲学]

伊藤博文の言葉

一、朝鮮人は対等の関係を結ぶという概念がないので、常に我々が優越する立場であることを認識させるよう心がけること。

一、朝鮮人には絶対に謝罪してはいけない。勝利と誤認し居丈高になる気質があり、後日に至るまで金品を強請さるの他、惨禍を招く原因となる。

一、朝鮮人は恩義に感じるということがないため、恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。

一、朝鮮人は裕福温厚なる態度を示してはならない。与し易しと思い強盗詐欺を企てる習癖がある。

一、朝鮮人は所有の概念について著しく無知であり理解せず、金品等他者の私物を無断借用し返却せざること多し。殊に日本人を相手とせる窃盗を英雄的行為と考える向きあり、重々注意せよ。

一、朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること。

一、朝鮮人と商取引を行う際には正当なる取引はまず成立せぬことを覚悟すべし。

一、朝鮮人は盗癖があるので金品貴重品は決して管理させてはいけない。

一、朝鮮人には日常的に叱責し決して賞賛せぬこと。

一、朝鮮人を叱責する際は証拠を提示し、怒声大音声をもって喝破せよ。

一、朝鮮人は正当なる措置であっても利害を損ねた場合、恨みに思い後日徒党を組み復讐争議する習癖があるので、最寄の官公署特に警察司法との密接なる関係を示し威嚇すること。

一、朝鮮人とは会見する場合相手方より大人数で臨む事。

一、朝鮮人との争議に際しては弁護士等権威ある称号を詐称せる者を同道せる場合がある。 権威称号を称する同道者については関係各所への身元照会を徹底すべし。

一、朝鮮人は不当争議に屈せぬ場合、しばしば類縁にまで暴行を働くので関係する折には親類知人に至るまで注意を徹底させること。特に婦女子の身辺貞操には注意せよ。

一、朝鮮人の差別、歴史認識等の暴言に決して怯まぬこと。証拠を挙げ大音声で論破し、沈黙せしめよ。

一、朝鮮人との係争中は戸締りを厳重にすべし。仲間を語らい暴行殺害を企てている場合が大半であるので、呼出には決して応じてはならない。

積年のバカ話 [哲学]

国民投票であなたとわたしの1票の価値に格差があれば大問題になる。

有権者の個人的価値に格差が生じるためだ。

ところがこの問題の場合、選挙区内の1票の価値は同じである。あなたとわたしの1票は等価値なのだ。

ところがこの問題は、マスコミ主導で違う選挙区の1票の価値の格差を論じてきた。

違う選挙区ということならば、都市部に住んでいる自分の街の市長を選ぶときの1票の価値が、僻地の村の村長を選ぶときの1票の価値と比較して良いの悪いのと問題になるだろうか?

都市部の市長を選ぶ場合も、僻地の村長を選ぶ場合も、選挙区内の有権者の1票の価値は等価である。そんなことは分かっているから、それを田舎の村長選と比較して「自分の1票の価値が低い」だのと怒ったり、市長選と比較して「オレの1票の価値は大きい」と自慢したりはしないだろう。

バカげた話なのだ。

格差2.43倍というのは、個人の1票の価値の格差ではなく、地域格差の目安である。

国会議員が有権者から付託される1票の価値が、都市部と地方で格差がある。地方の方が、若干多めに国会において意志が反映される。

ところが、圧倒的に有権者の多い都市部選出の議員の方が地方出身議員よりも圧倒的に数において勝るので、地方の意見の方が有利に議決されるほどの格差ではない。

それどころか、非常に狭い選挙区から選出される議員の陳情と、広域に及ぶ選挙区から選出される議員の陳情では、都市部選出議員の陳情の方がはるかにきめ細やかな小さな話題さえ意思反映され、地方選出議員は大雑把な、例えば公共事業の誘致のようなものにとどまる。

どう考えても、都市部の有権者の方が政治に意見が反映されやすく、見返りも大きい。

マスコミによって「(個人の)1票の格差」と表現されてきたものは、実は地域格差として表現すべきものだったのだ。

(個人の)1票の格差の問題としてしまったために、重大な地域格差の問題が歪められてしまっている。

オレは、(個人の)1票の格差などどうでもいいから、地域格差是正を考えていくべきだと思っている。

いまのままでは地方が圧倒的に政治的に不利であり、きめ細やかな陳情を国政に訴えることができない。

マスコミが作り上げたこの1票の格差という積年のバカ話は、日本法曹界のレベルがとんでもなく低いことを炙りだしている。

国会は、個々人の生活のあれこれを考える場所ではない。

地域のことを考え、国土の安定的で平均的な発展を考える場所である。







■格差2.43倍、統一判断へ=衆院定数訴訟を大法廷回付―最高裁
(時事通信社 - 07月18日 18:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2508381


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最低限の生活 [哲学]

「最低限の生活」

この言葉のおかげで現在の歪んだ福祉政策があるのだ。

本来「最低限の生活」とは衣食住がギリギリ保障され、法の元の平等が保障され、なおかつ公的サービスの一部が使えれば充分なはずだ。

ところが現金給付という手法をとったばかりに「最低限の生活」はどんどん拡大解釈され、サラリーマン並みの給与(一部はサラリーマン以上。そしてリストラもなし)、医療費の無料化、教育費の無料化、公的サービスの無料化、さらにはテレビ、携帯電話、クーラーなどの家電製品の所有の自由化、それでも足らないとばかりに遊興費にも自由に使えるようになってしまった。

現金給付は安易であるために拡大解釈がつきもので、これを止める手立てはない。みんなが知らないうちに、マスコミ左翼の言いなりに現金給付は拡大されていく。

現物支給にしても、チケットなどのようなものでは同じだ。とにかく乞食は一箇所に集めて、監視し、粥を与えるだけにしないとどうにもならない。

しかもこの国は外国人なら誰でもバカのように現金が与えられる。これも「全ての人種は完全に混ざり合うのが素晴らしく進歩的である」という左翼のお花畑妄想が生み出した白痴的状況の一部である。

この「支給水準の引き下げ」と言うのは、民主党の「公務員の新卒採用の削減」と同じで、根本的な解決を誤魔化すためのウソに過ぎない。

公務員は給与を一律で引き下げ、35歳を過ぎたら給与を減らしていかなくてはならないし、むしろ新卒採用は増やすべきだ。

そして生活保護に関しては一切の現金給付は廃止すべきなのだ。

「年金だけでは生活できないからお金が欲しい」などという要求は一切聞いてはいけない。

「食うのに困ったら慈悲院へお越しになれば粥を振舞っております」で充分なのだ。

「年金が足らん」だの「オレは無年金だ」などという連中にそう言ってやればいい。ヤツらは慈悲院などには来ず、親戚に金を無心してスーパーで刺身を買って食うだろう。

「最低限の生活」は、1杯の粥であるべきところをスーパーの刺身に変え、いずれは温泉旅館の豪華な食事に変えていく、左翼が長年使い倒してきた利権確保のための呪文のようなものだ。

「最低限の生活をするだけの現金を支給される権利」なんてあるわけないだろう。